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日本にコーヒーがやってきた

dejima

現在私たちの日常生活にすっかり溶け込んでいるコーヒー。

特別なお店で飲めるスペシャルなコーヒーからコンビニや自販機で手軽に飲める
コーヒー。

もともと日本に無かったものといううことを忘れちゃいそうなぐらい身近なものになっていますが、日本にやって来たのはなんと 江戸時代

いったいどのようにして日本にやってきて現在のように広まったのでしょうか。

目次

長崎の出島に初来日!?

日本に初めてコーヒーがやってきた有力な説として知られているのが、江戸時代初期、鎖国中の日本で唯一世界と交流が許可されていた長崎の出島ではないかと。
その出島に出入りしていたオランダ人商人によって持ち込まれたと言われています。
そのコーヒーがどのようにして日本人に広まっていったのか見ていきましょう!

初めてコーヒーを飲んだ日本人は誰?

残念ながら「この人です!」とはっきりしたことは分からないようです。
ですが、有力な候補がいらっしゃるのでご紹介したいと思います。

まずお一人目は長崎奉行所にお勤めだった「太田南畝(おおたなんぽ)」さんです。
彼は文人、狂歌師でもありました。
1804年、オランダの貿易船上にてコーヒーをご馳走になりました。
その翌年に出版された彼が長崎のことを記した著書「瓊浦又綴(けいほゆうてつ)」にコーヒーを飲んだ時の感想が記されています。
『焦げくさくして味ふるに堪ず』とあります。
彼の口には全く合わなかったようですね。

もう一人の有力な候補はオランダ語の通訳をされていた「吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)」さんです。
彼はオランダ語の通訳だけでなく医師であり蘭学者でもありました。
1775年、日本にやってきたスウェーデン人の植物学者ツンベルクさんの著書「日本紀行」に
『二、三人の通詞(通訳) がコーヒーの味を知るのみである』とあります。
ツンベルクさんは商館医として来日し、吉雄耕牛さんとは親交が深かったとか。
日本紀行に記されている二、三の通詞のうちの一人が吉雄耕牛さんではないかということです。

江戸時代の日本人にとってのコーヒー

鎖国中の日本にやってきたコーヒーですが、当初は日本人のためと言うよりはオランダ人が自分たちが飲むために持ち込んだ感が強いです。
日本にコーヒーが伝わってから200年以上あとの1823年、日本に医学を伝えたことで有名なシーボルトさんがオランダ商館医として出島にやってきました。

彼の著書『江戸参府紀行』にて「200年以上世界の商人たちと交流しているのにコーヒーがまだ日本に広まっていないことは驚きだ」と言っています。
また「日本人は自分たちと交流する時、好んでコーヒーを飲む」とも言っています。
何故需要はあるのにコーヒーが普及しないのか。
日本人は牛乳を飲まないことと、焙煎しすぎて焦がしてしまい味が悪くなることも大きな要因だと言っています。
どうすれば普及するのか考えたシーボルトさんは「コーヒーは健康にいい飲み物」として推奨していこうと著書『薬品応手録』にコーヒーを「長寿の効果がある飲み物」として掲載しました。
これは各地の医師に配布されたそうです。
また、普及しやすいように、焙煎したコーヒーを挽いて粉にして缶か瓶に詰めて、調理法や飲み方の説明も記載してはどうか…と現代に通じるような販売戦略も考えておられたようです。

シーボルトさんのおかげで日本にもコーヒーが広まり始めました!


開国と文明開化とコーヒー

1853年、皆さまご存じのペリーさんが黒塗りの軍艦に乗り、浦賀沖にやってきて日本に開国をせまり日本はそれに応じ開国しました。
文明開化の始まりです!
幕末の1858年、日米修好通商条約が結ばれるとコーヒー豆の正式な輸入が始まりました。
コーヒーも少しづつ広まっていき、1888年(明治21年)日本初の喫茶店『可否茶館』が東京、上野にオープンしました。創始者である「鄭永慶」(ていえいけい)さんはアメリカ留学経験があり、文学者や芸術家達が集うフランスのようなカフェをイメージしていたようですが中々庶民には広まらず4年で閉店になりました。時期尚早で思うように繁盛しなかった可否茶館でしたが、その後の日本のコーヒー文化に影響を与えたことは間違いないでしょう。

可否茶館が閉店した後、大正時代を迎えるまでに「ダイヤモンド珈琲店」や「メイゾン鴻の巣」、「カフェ・プランタン」、大阪には「キサラギ」などが開店しました。

「メイゾン鴻の巣」には文芸雑誌「スバル」系の詩人(北原白秋や木下杢太郎たち)が中心となって作った「パンの会」のメンバーが集まり文学や芸術について交流したり語り合ったりしていたようです。

可否茶館の「鄭永慶」さんが思い描いていたカフェ文化がようやく広まってきました。
しかし庶民にとってはまだまだ敷居の高い場所でしかありませんでした。

コーヒーが庶民に広まった!

銀座を中心に数々の喫茶店が開業し、インテリや芸術家の溜まり場となりましたが大衆離れした高級な店がほとんどで大衆にコーヒー文化は普及しませんでした。

庶民にコーヒー文化が広まるのは1911年(明治44年)、ブラジル移民の父と言われる「水野龍」さんが『カフェー・パウリスタ』を開業されてからです。

パウリスタで提供されるコーヒーは一杯5銭という安さでした。
他の店、例えばカフェ・プランタンは一杯15銭でしたからパウリスタは庶民が気軽に立ち寄れる値段と雰囲気の店であったことがわかります。
パウリスタはあっという間に大繁盛し、大正時代の全盛期には全国に支店が20余りにも増えました。

ブラジルに移住した水野さんは、ブラジルのコーヒーを日本に広めるためブラジル政府から5年間無償で豆の提供をうけていました。
水野さんは日本でコーヒーを普及させることが異国ブラジルのコーヒー農園で作業している日系人の労に報いる道であるする信念があり、ひたすら両国共栄のために尽力されました。

昭和のコーヒー事情

昭和になり繁華街から学生街まで幅広い場所にカフェーや喫茶店ができ、すっかり大衆に浸透したコーヒーですが、戦争がはじまるとコーヒー暗黒時代を迎えます。
しかし戦後、コーヒー文化、喫茶店文化は再び広まっていきます。
昭和には個性的なみせがたくさんできました。
一部ご紹介したいと思います。

コーヒー暗黒時代

1938年(昭和13年)第二次世界大戦がはじまる前年、コーヒーの輸入制限が始まります。
1944年にはコーヒーの輸入ゼロとなり「コーヒー暗黒時代」が到来します。
再び飲めるようになる日が来るのかもわからず、敵国飲料だから飲みたいと言うことも憚られる、コーヒー好きにはまさに暗黒時代です。
代用品として大豆や麦を炒ったものが出回りますが、コーヒーとは似て非なるものだったことでしょう。

昭和の喫茶店ブーム~個性が強い昭和の喫茶店~

1945年(昭和20年)終戦を迎えてもすぐにコーヒーが飲めるようになったわけではありません。
ようやく庶民がコーヒーを飲めるようになったのは1950年にコーヒーの輸入が再開されてからです。
戦後は個人経営の喫茶店が大半で、店主のこだわりが色濃く反映された店が人気となりました。

中でも音楽喫茶と呼ばれる音楽と結びついた業態の喫茶店がたくさんできました。
有名人も輩出した「シャンソン喫茶」、音楽演奏がサービスの主となった「ジャズ喫茶」や「ロック喫茶」、クラシック音楽のレコードを店内で聴かせる「名曲喫茶」。
他にも歌声喫茶やゴーゴー喫茶、ロカビリー喫茶など様々な業態の店が誕生しています。

家で音楽を楽しめる人は多くなかった時代、喫茶店は音楽を楽しみたい庶民の憩いの場でもあったのですね。

まとめ

江戸時代に日本にコーヒーが伝わってから戦後の昭和の喫茶店ブームまでをざっと見てきました。
シーボルトさんが日本人にコーヒーの効能を宣伝してから200年ほど経過しています。
2020年に全日本コーヒー協会がおこなった調査によると、2020年の一人1週間当たりの杯数は11.53杯だそうです。
シーボルトさんが現在の日本のコーヒー事情を知ったらさぞ驚かれることでしょうね!

私たちが気軽に美味しくコーヒーを楽しめいる背景には長い歴史の中で先人たちの努力があったからだということがわかりました。
歴史に思いを馳せながら飲んでみるといつものコーヒーがもっと味わい深いものになりそうですね。


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